♪ごあいさつ♪

長崎ハンドベルコミュニティー 会長 大串秀人

 1990年、長崎「旅」博覧会が開催されました。長崎県、長崎市、長崎商工会議所が主体で財団法人長崎「旅」博覧会協会を設立し、運営されました。会期は8月3日から11月4日までの3ヶ月間。松が枝埠頭やグラバー園が主会場となり、中島川周辺、中華街、東山手、平和公園、稲佐山公園なども市内会場となりました。

 私は、長崎市の職員として協会に派遣され、博覧会催事を担当することになりました。当時全国で多くの地方博覧会が開催されましたが、長崎は主会場が狭く、展示パビリオン等も少ないため、必然的に催事型の博覧会になりました。松が枝会場のイベント広場を中心に、タレントショーからコンサート、郷土芸能、子供相撲大会、大道芸、水上スキーショー、打ち上げ花火など期間中連日ありとあらゆるイベントを繰りひろげました。

 しかし、単なる話題づくりや集客対策だけでなく、50年に一度しかないと言われる博覧会を機会に、将来に残り発展していくものを創出したいとの想いが強くあり、そのひとつとして取り上げたのがハンドベルだったのです。

 長崎にはハンドベルの「種」と「土壌」がありました。活水中学・高校の小國公子先生(前会長)が長崎で初めてハンドベルを導入して地道な活動をされており、みのり園でも心身障害児の音楽教育の一環として取り入れられていました。また、長崎は平和を希求する街、洋館や教会のある港町は、ハンドベルの雰囲気にマッチします。そして何よりハンドベルは皆で協力して完成するもので、長崎にふさわしい音楽ではないか、これをこの機会に市民に広げたい、長崎をハンドベルの街にしたいと思いました。

 約1年前から市民に呼びかけてチームをつくり、練習をしてもらいます。博覧会のフィナーレを飾る一大市民参加イベントとして11月3日文化の日に博覧会会場で「旅博ハンドベルフェスタin長崎」を開催しました。これが現在続けている「ハンドベルフェスタ」の原点です。東京の日本ハンドベル連盟事務局の全面的協力を得て、ベル1セットをお借りし、各チーム使い回しで練習してもらうところから始めました。活水中学・高校、みのり園のほか、市内の小学校、少年合唱団、コーラスグループ、大学生、活水OG、協会職員の子供のチームもできました。フェスタの実行主体となる「長崎ハンドベル実行委員会」を組織し、小國先生に会長をお願いしました。現在の「長崎ハンドベルコミュニティー」は、この実行委員会が博覧会終了後も継続し、名称変更をしたものです。

 この間、8月には韓国ソウルで開催されたハンドベル世界大会に参加した海外のチームに帰路長崎に寄ってもらい、博覧会会場や浦上・中町両教会での「平和祈念コンサート」を行い、8月9日11時02分には街中の数ヶ所で同時にレクイエムを奏でるなどして、ハンドベルの魅力を市民にアピールしました。

 博覧会を契機に市民の音楽となったハンドベルであり、「フェスタ」が生まれた訳ですが、長崎でここまでハンドベルが広がることができたのは、実は行政だけではなく、市民や民間企業の方たちの大きな支えがあったからでした。博覧会そのものが官民協力のもとでの地域振興事業でしたが、ハンドベル催事には趣旨に賛同していただいた企業の寄付があり、ベルの購入や運営費に充てられました。また、ライオンズクラブからもベルの寄贈を受けました。博覧会終了後は、これらのベルは実行委員会(現「コミュニティー」)に無償譲渡され、その後の活動に使われています。

 さらに、1998年ロータリークラブから長崎市にベルが寄贈され、開館したばかりの長崎ブリックホールに備品として設置されました。これを機に、ブリックホールで市民のためのハンドベル教室が開催されるようになり、教室を修了した人たちが次々に新たなチームを結成するようになりました。市内の中学・高校でもハンドベルのクラブ活動が現れるようになり、ハンドベル人口が増えるようになりました。

 ベルは高価なもので、なかなか個人やグループで所有することはできませんが、民間の企業や団体が寄贈し、行政が場所を提供する。市民は楽しみながらハンドベルの魅力に触れ、地域のために貢献する。よりよい関係ができているのは、皆が「長崎にはハンドベルがよく似合う」と感じているからだと思います。

 「コミュニティー」は市内各チームの連合組織であり、日本ハンドベル連盟とも連携して、ハンドベル演奏を通した長崎らしい音楽文化の向上、平和都市長崎のアピール、地域福祉や国際交流への貢献を目標に活動を続けています。ハンドベルのチームは全国にも数多くありますが、地域でまとまり市民団体として活動している「コミュニティー」は長崎独自の存在で、全国的にも注目されています。

 2012年4月、長崎のハンドベルの象徴として永年にわたり普及と指導に努めてこられた小國先生がお亡くなりになりました。数年前から病床にあっても、フェスタの際には必ず指揮台に立たれていたので、先生がいない「フェスタ」は想像できないことであり、「コミュニティー」としても、悲しみを乗り越えて再出発しなければならなくなりました。

 私は、前述した経緯で「コミュニティー」の継続をお願いしながら、任せっぱなしで安心しておりましが、ここにきて後任の務めを負うこととなりました。企画の仕掛け人ではありましたが、音楽とは無縁の人間で、演奏指導などできる訳ではありませんが、小國先生が育ててくれたリンガーたちの相談役として、また「長崎をハンドベルの街に」との想いに賛同される方々とのネットワークをつなぐ役割で少しでも「コミュニティー」の目標の達成のためにお役に立てればと考えています。

 ハンドベルに関心を寄せていただいた皆様には、今後とも「コミュニティー」に対して変わらぬご支援とご協力をお願いいたします。

2012年9月1日

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